日の記 2
2
講義室の前で人があふれ出すのを待つ.前の講義が少し長引いているらしい.一人二人講義室を出ていくものもいる.彼らには次の用事がそんなにも詰まっているのか,と何ともなしに思う.徐々に同じく講義室の前で待機している人が増え始めてきた.
腕時計を見る.
大学生になってからつけ始めたものの,やはり腕に何かを括り付けておくというのは
と,扉は決壊し,人が勢いよく漏れ出した.
私はそのあふれ出る人の流れが落ち着くのを待ってから講義室へと入り,真ん中あたりの列の窓際に席を確保した.
午前の陽ざしが雲の切れ間から漏れている.
春は三寒四温の季節という.寒い日が三日続いた後に温かい日が四日続くという季節の移ろいを表した四字熟語だ.今日は三温目といったところだろうか.温かい日が何日続いていたか正直覚えてなどいないけれど.
窓を開けてみようかとも思ったが、まだ少し外の空気は冷たいことを思い出して手を伸ばすのをやめた.温かいのに寒い.否,その逆かもしれない.不思議な季節だと思う.
さっきの出来事を思い返していた.
そよぐ風,揺れる服,なびく髪.
「恥ずかしいから,あの,やめてもらえる?」
彼女の顔から笑みが消え,きょとんとした顔になった。
「恥ずかしい?」彼女はすっと背筋を伸ばす.
「他人の目があるし...」
「誰も見てないわよ」
事実,誰も見てはいなかった.
「大丈夫よ,誰も見てないし,見られていたとして私は恥ずかしくないわ」
そう言ってひょいと動いて,彼女はまたベンチに腰をつけた.
私はしばらく彼女をみつめたまま言葉が出てこなかった.
このまま歩き出してしまおうかと思い,腕時計を見た.腕時計を見るという行為はこういう時に便利だ.もしかしたら感じが悪いと思われるかもしれなかったが,目の前の少女にそんなことを思われても別に何も問題は無い.
前の講義が終わる頃だ.
「じゃ,」と私はそっけなく言った.
私は,けれどきっと声をかけて引き止められるだろうと直感した.そして直観はそのまま現実となった.
「授業なんていかなくていいじゃない」
私は振り返る.当然のプログラムのように.
「君は授業行かなくていいの?」こういうとき,私は言ってから今の自分の言葉が少し不自由なように感じてしまう.
「行かなくていいの.勉強をする必要がないからね」
「それは,魔女だからかい?」と私は少し意地悪げに尋ねてみた.
けれども少女はそんな私の意地悪には全く動じる様子もなかった.私はもっと核心をつくように続けた.
「魔女っていうのは」私はそこで言葉を切って少し言葉を選んだ.「なんでも知っているの?」
声に出して言ってみたものの自分が本当に目の前の少女を魔女だ,なんてこれっぽっちも信じていないことを確認する.声に出して音にしてみるとやっぱり「魔女」という語は異様な雰囲気をまとっていた.
そんな私の憂慮には思いもくれず,彼女はしっかりとした笑顔を作って答えた.
「なんでも知っているなんて恐ろしいことはないわ」
それは,一般論を答えたのか単に彼女の感想だったのか,私には分からなかった.
「なんでも知っている,と自称することは簡単よ.実際にそういうことを言う存在を私は知っているわ.けれどね,魔女はなんでも知っている,なんて自分では言わないわ」
これは言葉の綾だ.
「それが充分答えになっているような気がするね.つまりは何でも知っています,ということか」
「だから,違うわ」
彼女の表情は,不機嫌そうな語気に反するように穏やかだった.
「私はね,なんでも分かるの.君の考えていることも,明日何をするかも,何もかも」
「それはすごいな.僕は明日何をしているのかな?」
「また学校に来るわ」
それはなんとまあつまらない返答だった.
「じゃあこういうのはどうかな.七の三乗足す三の七乗は?」
魔女は手を口元にあてて,ふふふっ,と言った.それは言ったという表現がふさわしいように,とても笑ったという感じではなかった.
「私はね,暗算は苦手なの」
「なんでも分かるんじゃなかったのか」
「そうね,紙と鉛筆があればできるかな」
「行列も解ける?」
「線形代数学なら少しわかるわよ」
私は驚いてしまった.
見た目は頑張っても高校生くらいだ.そんな彼女の口からまず線形代数学なんて言葉が出てくるなんて思いもしなかった.
自分の目の前にいるこれは,いったいなんなんだ?
「そうね,私が魔女だっていう証拠を見せてあげられればいいんだけど.こればっかりは信じてもらうしかないわね.証拠なんてないもの」
「魔女なら魔法が使える?」
魔女は真面目な顔になった.
「魔法って何か知っている?」
私は少し考えてみた.ものを浮かす,人を操る,炎を出す,,,.
「そうね,そういったものが魔法だ,と思われてしまいがちね.でもそれらは全部科学の応用でできてしまうわ」
「空中浮遊も?」負の質量?万有斥力か反重力子?
「やり方は色々あるけど,あなたにも心当たりがあるという時点でそれは科学でも実現可能ね」
私は私が思い浮かべたものがおよそ真っ当な科学とは思えなかった.
しかし,魔女というのはなんでも分かると言った.ということはこの世のすべての現象を記述することができるということか.それならばなんでもできてしまいそうだが,それらを魔法と言い張ってもいいのではないか.
私は考えをまとめて何か言おうと思ったのだが,いつも彼女がその前に話し始めてしまう.
「世の中には魔法は二つしかないわ」
世の中に魔法は二つしかない.
「どういう意味?」私は考えるよりも前に言葉を発した.彼女と真の意味で“会話”するにはこうするほかない.
「意味はそのままね.考えずにしゃべると間抜けな質問が出てくるものね」彼女は楽しそうに言った.明らかに人類をバカにしたような言い方だ.
「人類をバカに,ね...」
彼女の視線がひざ元に移る.
「二つの魔法を教えてほしい」
私は今度こそ聞きたいことの返答を聞ける質問をした.