スプートニクの恋人 を読んでいる.
こんばんは,よしだです.
を読んだ.とカテゴライズして読んだ本の感想を一言述べる記事を書いていましたが,止まってしまっていますね.
まあ,記事を書くために小説を読むというのは私的にはやりたくないことなので,今後も気ままに読書していきたいと思います.
さて私は今スプートニクの恋人を読んでいます.
初めての村上春樹長編です.
私はこれまで村上春樹を読まず嫌いしていましたが,先輩の勧めでカンガルー日和とスプートニクの恋人を買いました.
カンガルー日和はとりあえず「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出合うことについて」だけ読みました.
これは秒速5センチメートルかなというのがとりあえずの所感です.
きっと起こった出来事としてはすれ違っただけなのでしょうが,きっとその瞬間に様々な逡巡があったのでしょう.
わかります.
これを読んでいるときに同時に河野裕の階段島シリーズ「黒は壊れた凶器の叫び」を読んでいました.
このシリーズはなあなあで第4弾まで読んでいましたが,正直に言うとあまり好きであはありません.おそらくその先も読みません.
成長とは諦めることや捨てることなのだろうか,という問いにもし前向きな回答が用意されていたとしても,私はそれまでの過程を気にいることはできません.
では成長とは何でしょうか.
このテーマを前向きに描いたアニメーション映画を最近見たのですが,これは私には重くのしかかってきます.この話は割愛.
遠い昔に書いていたような気がする小説でこのような文章を書きました.
けれど一生懸命に誰かを追いかけて,ただひたすらに同じルートを周回し続けるある意味健気なあの彗星を私はどんな思いで眺めただろう.否,彼女はもう二度と地球には接近しないルートを走っていたかもしれない.
気が付くと周囲は夕暮れ時で,頭上には満点の星空が広がっていた.
そして西の低いところに大きな尾っぽを引いた彗星が見えた.
私はただ,あの彗星の後ろ姿を見ることしかできない.
明日も,明後日も同じ場所に見えるだろう.
けれど彼女は一方で,ちょっとずつ向きを変えて,場所を変えて,そしていつかは見えなくなってしまう.
そのはずなのに,私たちはその瞬間を気にも留めず,気がついたらいなくなる彼女らをいなくなってから認識するのだ.
彼女とは彗星のことであり,魔女のことであり,私自身のことです.
いつも同じルートを周回しては同じ景色を見て,私自身の成長とは何ぞや,と問いかけています.
けれど,そう考えていたはずの自分は気が付いたらどこかに行ってしまって,しかしやはりそのことは自明の理であるにもかかわらず,いなくなってから自覚するのです.
もちろん自覚されないこともあるでしょう.
本題ですが,村上春樹について.
私は読み始めてからまずその文章のコクの深さに舌が追い付きませんでした.
おそらく河野裕があまりにもうっすい塩味だったのでその落差もあるでしょう.
味が濃いのとも旨味がひたすらに強いのとも違うように思います.
なかなか表現が難しいのですが,さらっと読み進めることが難しくゆっくり味わいながら読んでいます.
おかげで全然読み進みません.
そんな中,スプートニクの恋人の中に好きな一節を見つけました.
ぼくは昔の日々のことをふと思い出した。ぼくの成長期(と呼ばれるべきもの)はいったいどこでいつ終わりを告げたのだろう? そもそもそれは終わったのだろうか? ついこのあいだまで、ぼくは間違いなく成熟への不完全な途上にいた。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのいくつかの曲がヒットしていた。数年前のことだ。そしてぼくは今こうして、一つの閉じられたサーキットの中にいる。ぼくは同じところをぐるぐるとまわり続けている。どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。そうしないわけにはいかないのだ。そうでもしないことには、ぼくはうまく生きていくことができないのだ。
表現の近しいところがあるからという理由ではありません.けれど,これは私の思い描く彗星の比喩と言わんとしていることは似ています.
しかしその結論や現在位置が異なります.
どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。
私は彗星の行く先を知りません.
知りたくありません.
しかしそれは,もしかしたら知っているのに知らない振りをしているだけかもしれません.
もしそうであるならば悲劇でしょうか.
けれどどうしても,知らない振りをしてでもその彗星の行く先に期待したいのです.
自分の考えたことなんていうのは一つも面白くありません.
最後に最近好きになった曲の一節を引用して終わりにしたいと思います.
まどろみの淵で私は優しい夢を見る 幻と知りながら
絶望のほとり 懐かしい人の名を叫ぶ
嵐の向こう側にいると あなただけに届けばいい