二年前の春にした旅について
二年前の春にした旅について,なぜ今になって筆を執るに至ったのかを的確に説明することは難しい.
しかし,我が人生において2019年という年は大きな転機となった一年だと,もしかしたら十年後二十年後に思うようになるのではないか,そういう予感がしたのだ.
そういう予感がしてしまったのだ.
普段から旅行につけて筆を執ることなどなく,これを書きしたためるに足る情報というのは脳内では既に朧気で,だからこのために少々当時の情報を収集した.
現代に生きる人間の端くれとして,私にも一応の携帯端末の所持が許されていた故になしえたと考えると,そのぼた餅を食えたことに一応の感謝をした方がよいのかもしれない.しかしそれは誰にであろうか?
当時の私は全くもって人間的に弱かった.
中高の頃より常に強くありたいと願い生きてきた.しかし願いはそれ単体では叶うに能わない.
当時大学四年に上がろうという自分もまだなんら中学生の坊主と変わらぬ精神であったろう.
もし今の精神がそれよりもほんのわずかだけ強くなれているのだとしたら,それはやはりこの2019年という年を境にということではないかと自己分析できる.
どれくらいまで詳細に事のあらましを書くべきだろうか.
ただ旅をしたことについて書こうというものではない.
正直に言ってしまうと私はこの時,大いに精神を病めていた.これは,そうした精神の旅について本来書かれるべき文章である.
学部四年に上がろうというのはつまり,私の通っていた大学では研究室所属を決定せねばならぬという時期である.
私がこの大学を選んだ理由,そして将来自分のやりたいことは何か.
そうした自問と無能力な自分という現実の狭間で私は心をすり減らしていた.
自問の答えは明確である.であるならば,何を迷うことがあろうか?話は簡単であろう.
しかし私の学業成績は充分に良いものとは言えず,また目指している研究室は一般的に人気が高く,所属できない可能性が高かった.
その場合,自分はいったいどのようにして研究室希望の順位をつけるべきなのか?そもそも本当に自分のやりたいこととはひとところに決めたそれで正しいのか?劣等感が常に付きまとっては自分の未来を濁らせた.
だからこの旅は逃避行だ.
一人で遠くへ行きたい.
日頃からそう言っていた一人の人間が物理的に本当に遠くへ行ってみたという俯瞰すればそれだけに過ぎないお話である.
しかしどこまで遠くに来たところでこの体は常にここにしかないという大きな矛盾を,人類は未だ嘗て解決したことがない.