二年前の春にした旅について 5
ほいほいと簡単におじさんの家に上がり込んだ.
もちろんすぐに帰るつもりだった.
二日分の宿代を払ってしまっているし,万一の命の危機に関わる可能性まで考えた.
コーヒーを手渡されて,居間に腰付けると私たちはよく分からないまま会話を始めた.
おじさんは私の目が,人生に疲れた色をしていたとそう言った.
悩みを教えないさい.
そう言われて私は自分でも信じられないほど正直に研究室所属や将来の不安について話すことになった.
今となってはもう話の順序や出来事の順序については覚えていない.
だから覚えていることを思い出した順に書き連ねることになると思う.
おじさんはただ若い友達が欲しいと言った.
しかし私がそれになれるとは思わなかった.
おじさんは長く船乗りをしていて,しかしもう引退の時だと語った.
大分には一人で住んでいて娘息子はもう立派に社会に出ているのだと語った.
おじさんはカメラが好きだと言っていていつくか古めかしいカメラを見せてくれた.
その一つを手に取って私は何枚かシャッターを切った.今となってはそのメーカーすら覚えていない.
その日は火祭りと言って山に火を放つ祭りがあった.
夜になって少し外を出たときにおじさんとその山が燃え盛るのを見た.
こうして外に出ておじさんは近くのお店でお酒をいっぱい買ってくれた.
そのうちの一つが安い焼酎で,九州に来たからにはと言われて飲んだが焼酎が嫌いな私にとっては苦行であった.
おじさんは私に名前を尋ねた.
私は包み隠さずその名前と漢字を伝授した.
驚いたことにおじさんは私と同じ名前を使った親族がいるということを明かした.
そしてそれは「力の強い」漢字であると言った.
私の下の名前はつくりが「曜」と同じであるのだが,実は母が戸籍に登録するときに二つ並んだヨの部分を「羽」で書いて出したらしく,母曰く「ひかりかがやき羽をもってとびはねるようにげんきな」という願いを込めたのだと伝え聞いていたので,私はその通りに話した.
するとおじさんは古来このつくりは「羽」で書くのが正しいと言った.
以来私は自分の名前を,これまでヨ二つで書いていたのを辞めて「羽」で書くようになった.
またおじさんは私が腕時計をしていないことを指摘した.
それは身なりの一つなのだと教えてくれた(そして私はこの旅を終えるとまず腕時計を買ったのだ).
おじさんは腕時計をくれるというので私はおじさんが数多く持っている腕時計の中から適当に一つ選んでそれを頂戴した.
更におじさんは私に何かプレゼントしたいと言い始めた.
珍しいものがあると言い,私は大阪万博(1970)のソビエトパビリオンのメダルを渡された.
これがどんな歴史資料的価値があるのか分からないがとりあえずもらうことにした.
また謎の手ぬぐいも渡された.
そして,必ず東京に帰ったら一度手紙をよこすようにと,私たちはお互いに住所を教え合った.
もちろん私も嘘偽りのない住所を教えた.
それ以来私はこのおじさんに手紙を出したことはない.
あちらから届いたこともない.
ただ,今でもおじさんからもらった腕時計とメダルと手ぬぐいと,住所と名前の書かれたメモ代わりの茶色い封筒が私のところに残っている.
そして悪い事件に巻き込まれたというようなこともない.
もうお分かりだろうが私はこの日湯布院の安宿には戻らなかった.
おじさんの家で寝ている間,おじさんはマッサージをするといって脚をもんでくれた.
時々手が股間近くに来ることがあってすこぶる不快で嫌がったが,おじさんはリラックスしろとそれだけを言った.
そこにいたる前の会話で私がどれくらい自分自身について語ったか正直ろくに覚えていない.
後になって冷静に考えると生きてあの家から出られて本当に良かったという感想しかない.
しかし,今私が腕時計をしているのも,下の名前を「羽」で書くのも,あのおじさんがいたからこそなのは間違いない.
未だ嘗てこのことについて私は誰かに語ったことはない.
そして特にこの日が私の人生の分岐であったというわけでもない.
しかし,こうして書き留めておかないと墓場に持っていくことすらできないかもしれないと思ったのだ.
この年,もし私が何かしら精神的成長を遂げたとするならばこの日よりもだいぶ後に起こった(というより参加した)出来事によるものだと思う.
いずれにせよこうして私の旅は閉幕へと向かうのである.
帰りの飛行機は四月の三日だという記録がある.
ジェットスターGK604便 大分発―東京(成田)着 十一時三十分―十三時十分.
この飛行機が六時間遅延して,空港で「イシュタムコード」という本を買って読んだ記憶がある.
その四月の三日に,私の研究室配属が決まり,今幸福にも宇宙工学を専攻することができている.