アンドロイドは電気羊の夢を見るか? を読んだ.
こんばんは,よしだです.
今回は誰もが一度は耳にしたことがあろうタイトル.映画「ブレードランナー」の原作であるアンドロイドは電気羊の夢を見るか?です.
映画ブレードランナーも見ましたが,序盤は面白い!!!と思ってみてました,フォークトカンプフテストの描写や,フクロウ,ダチョウが出てきたり,原作に即している部分もあってワクワクしてみていました.
まあ最終的な評価はさておき,アンドロイドが寿命を気にして,己が寿命によって死に絶えるシーンはなかなか良かったですね,原作にはない要素でした.
さてとりあえず本書がどのようなあらすじかを説明してみましょう.
死の灰が降る大戦後の地球で主人公の刑事は賞金稼ぎ(=バウンティハンター)として働いていました.
地球に逃げこんできたアンドロイドを処分するのが彼の仕事です.
そんなときこれまでにない高性能なネクサス6型と呼ばれるアンドロイドが8体,地球に逃げ込んできました.
彼の上司(同僚?)がその処分にあたっていたのですが,彼はそのうちの2体を処分します.
しかし,3体目のアンディー(アンドロイドのこと)にレーザー銃で重傷を負わされます.
そこで主人公リック・デッカードが残りのアンディーの処分に向かうのでした...
なんともSFむき出しですね.
まあSFの超大作と名高いですから,それはもうSFですよ.
しかし当方,SFはミリしらです.小説は読んだことが(すべてがFになるはSFではないので)ありません.映画の方ではスターウォーズやバックトゥザフューチャーは好きですがもちろんSFの文脈というものもわかりません.
最近見た映画でワイ(ル)ドスクリーンバロックというSFのモチーフを取り入れた作品を観に行きました.
また「TVアニメ「ゲキドル」」というアニメも見ました.ワイドスクリーンバロックやゲキドルについてはここでは話しませんがもちろんこれらの(SF)とは電気羊は異なります.
さて,私の中にある数少ないSFの蓄積に「新世界より」があります.
当記事では当然のことながら電気羊のネタバレを含みますが,その他,新世界よりなどの作品についてもネタバレを含みます.悪しからず.
ここまでSF,SFと連呼してみましたがアンドロイドは電気羊の夢を見るか?はSFにとどまらない,それ以上のメッセージ性を含む小説だと私は感じました.
多くの要素が登場します.
アンドロイドと人間の違い,人間性とは何か
マーサー教という宗教と融合の儀式
ピンボケと呼ばれる人々の存在
大きくはここら辺でしょうか,もっと細かく,更には一番大事な何か,を落としているかもしれませんがお許しを.
当記事はあくまで私が読んでみての感想(怪文書)となっていて世間一般の評価や見解等はいっさい見ていません.(あとで調べてみますが)
口に合わなければ,是非高級料理店へ行ってください.そこではあなたのお望みの料理が出てくるでしょう.
さて脱線(それも重要な脱線を)してしまいましたがまず人間性,アンドロイド性について考えてみたいと思います.
本書はそのタイトルにもあるようにアンドロイドが登場します.
しかし彼ら彼女らはほぼ人間と同じような見た目,構造をしています.おそらく脳ユニットのみが異なるのでしょう.
処分(=レーザー銃による射殺)してもなお,「脊髄を検査にかければ分かる」というような描写があり,素人目では銃殺されても死体を見ただけでは人と区別がつかないほど人類に近いのでしょう.
そんなアンドロイドをどのように人間と区別するのか,そこに感情移入度テストというのが登場します.
君は仔牛革の財布をプレゼントされる.
君には子供がいて,その子が蝶の標本と殺虫瓶を手に持っている.
テレビを見ていると君は手首にスズメバチが這っていることに気が付く...
こうした質問にできるだけ早く答えてもらうとともに瞳孔の反応や顔面表皮の血流を見ます.
この世界では「生きた生物」は貴重で小さな虫さえ人々は所有することで自信のステータスとして誇示することができます.ちなみにタイトルの電気羊はデッカード刑事が所有しています.こうした電気性の動物はいわゆる偽物みせかけで,デッカードはいつか本物の生き物を所有することを(高額で購入することを)夢見てアンドロイドを処分する仕事についているのです.
さて,これらの質問によって被験者の感情移入度を測ることができるというのです.
そしてアンドロイドには「感情移入」がないため,こうして人間と区別できるというのです.
感情移入については他の動物たちにも備わっていないと書かれています.
そしてそれを捕食者の都合だと言っています.
つまり食うものは食われるものの気持ちを考えてはいないというのです.そんなことをいちいち考えていては捕食などできず,生存に不利になってしまうというのです.
これはもしかすると「感情移入」という比較的形のはっきりしている強い言葉では表現しすぎているようにも思います.
私はこの話を読んだ時,銀河鉄道の夜の蠍(サソリ)の火の話を思い出しました.
蠍がイタチに襲われて逃げていると,井戸に落ちてしまいます.
蠍はそれまで捕食する側で,食われるもののことなど考えたこともありませんでした.しかし,イタチに追われて初めて捕食される側の気持ちを考えた時,蠍は井戸に落ちて死ぬくらいならばイタチに食われた方がよかった,と考えるのです.
そうして蠍はいまでも夏の夜空にその心臓をこうこうと赤く灯しているのです.
というお話です.
ふむ.
これを感情移入と呼ぶにはイメージを固定しすぎてしまうような気がします.
我々「人類」が手に入れたものの一つにフィクションの創造と共有があるといいます.
お互いに考えていること(フィクション)を一つの確固たるものに固めすぎるのはあまり気が進みません.
そういうわけで,この感情移入,人間のみが持っていてアンドロイドにない業のことを私は「ほんとうのさいわい」について考えることのできる能力なのではないか?と考えました.
そしてこれこそが本書,アンドロイドは電気羊の夢を見るか?の主題なのではないか?そうであったらそれはどんなに素敵だろうと,どんなに傑作だろうと感じるのです.
これはSFの枠に収まりきりません.
そういう強いメッセージのある作品だった,というのがまず真っ先に私が感じたことでした.
私にも「傑作だった」って言わせてほしい.
ところで,我々の一般的に使う語としての「感情移入」について考えてみましょう.
つまりこの作品の登場人物の気持ちを想像し「ああ,それわかるわぁ」という感情になれるかどうか,という意味です.
結論から言うと,主人公の刑事,リックデッカードにも,もちろんアンドロイドにもあまり感情移入ができませんでした.唯一,J・R・イジドアにだけは「同情」があったかもしれません.(この感情表現が良い悪い正しい正しくないはさておき)
しかしそれもそうかな,という気もします.
大変な戦争のあと,死の灰が降る地球で多くは火星等地球外へ移住してしまっています.なぜ彼らはそれでも地球に残っているのか,いや,残らざるを得ないのか?こうしたところは想像で補うしかないところかもしれません.(本書内には書かれていなかったような)
そんな世界で,そんな状況で生きている人間たちの気持ちを私は(少なくとも私は)まだ想像できません.
アニメ「新世界より」では登場人物たちにあまり感情移入することはできませんでした.
それもそのはずで,彼女たちは能力を持たない人類を排除した末裔,1000年後の日本を生きているものたちなのです.
新世界よりでは彼彼女たちは私たちを醜いハダカデバネズミと混ぜ合わせたのです.そうして一生下僕のように支配しています.
これらの人々に感情移入ができないのは当たり前のように思いますが,このアニメは終盤までそのせいで入り込めずずっともやもやしていました.
だからこそスクィーラには少し感情移入ができたように思います.なぜなら彼は我々の遠い子孫にあたるわけですから.
こういう世界において感情移入ができないというのは一つ当然のことなのかもしれません.
では私は人間ではないのか?
という愚問がわきそうですのでやはり「感情移入」という語ではちょっと限定されすぎてしまうかなと思いました.
以上が私が本書を読んで思った最大の論点,人間性についてでした.
もちろんそれ以上にこの小説には意味が深そうな要素やシーンが多々登場します.
とりあえず本書の構成上重要そうな特殊者(スペシャル)について触れるべきかもしれません.
本書は主人公の刑事リック・デッカードの一人称と廃墟同然の建物に住むJ・R・イジドアの一人称の二つの視点で進んでいきます.
イジドアはスぺシャルと呼ばれていて,おそらくは知的な健常性が少し欠けているようです,通称ピンボケ.
しかしそんな彼も手に職をつけて働いています.
そして何より彼は彼の信じるところに忠実であり,彼の「感情移入」はその他登場人物よりも強く大きく描写されているように思いました.
簡単に言えば人間らしさが一番あったように思います.
彼と並列に紹介したいのがマーサー教という宗教です.
坂道を登り続ける老人はその頂上に登ると墓穴世界へと落ちていきます.
しかし,また登り始め頂上を目指すのです.
道中石を投げつけられたりもします.
そうした苦行をエンパシーボックスの取手を握ると融合によって体験できるのです.
その老人こそウィルバー・マーサー.
そして不死であり,全てを受け入れる,そうピンボケも.
どうやらこの世界で深く信仰されている宗教のようなのですが,その深い意味について考えるには私の脳みそはまだ未熟なようです.
またピンボケに最大の人間性を与えている本書の示唆するところもありそうです.ここらへんが上手く言葉になってこない.要は理解できていないという意味ですが.
レイチェルというアンドロイドが登場します.
主人公のデッカードと彼女は一夜を共にするシーンがあります,刑事には妻がいるのにです.(ここら辺が「感情移入」できないとする理由でもあります.)
ここも確かに大きな意味を持っているような気がします.
じゃあ言葉でどうだと説明してみろと言われるとこれも私にはできません,ぴえん.
その彼女が,デッガードが物語中盤で購入する生きた黒山羊を建物の屋上から落下させて殺してしまいます.
なぜか?
ここもわからん.
終盤ではデッガードが死にに行く(と言いながらも結局は死なない)と,家から遠く離れた荒野に向かい,そこでガラクタの山を見ます.そこで彼はまさにウィルバー・マーサーその人になったような体験をします.その後自身の影法師にマーサーを見出し,ガラクタの山から電気ヒキガエルを見つけます.
ここもわからん.
しかしですよ,建物の上から生きた山羊を突き落としたアンドロイドと,自身が永遠に山を登り続ける老人その人になったような体験をして,山から生き物を見出す主人公,つながっているようにさえ思ってしまうのです.
う~ん,なんもひねり出せん.
この主人公の葛藤のような,この刑事の人間性,否,人間でないようなものになってしまったのか?
そう,彼はアンドロイドなのか?途中少し行動を共にするバウンティハンターも自分自身が人間であるか?と疑問に思うシーンもあります.
また,デッガードの頭が一度だけ,その脳の電路がブーンと音を立てる描写があります.
もう一つ,アンドロイドは生きた動物を所有しようとはしないというのです.その例は過去に何度かあったものの長続きしなかったとか.
さて,アンドロイドは電気羊の夢を見るのか,見たのか,見ていたのか?誰が?
どうにもあと一歩,つかめそうでつかみきれない要素ばかり.SF長編は初でしたが,これが,これこそがSFなのでしょうか?
怒涛の展開にすらすらと読んでしまいましたがまた遠い未来にもう一度読みたいと思います.
ではまた,次回があることを祈って,いい夢見ろよ,歯磨けよ.
おしまい.
とここまでが読後の勢いで書いたメモでした.
ここでとりあえず岡田斗司夫に登場していただきましょう.
1:46:10あたりからの話ですが,私が思っていた気がすることを説明しています.
やはりリック・デッカードはアンドロイド(=ほぼ人間)を処分していくうちに人間性を失い,非人間的になっていってしまったのでしょう.
だからこそ(読者が彼に)感情移入ができないのは当たり前でしょう.
(殺人犯の心理が理解できるということほど不健全なものはありません,という瀬在丸紅子の言葉にもつながりそうです)
人間性,人間的であること
これは人類の決して見失ってはいけない永遠の呪いかもしれません.
そんなことを考えさせられる一冊でした.
それでは今度こそ,おしまい.