@がんばらないで生きていく

小説ちょこっととお本の感想,その他趣味,星を観ます

ほんとのところ

「ほんと」とか言っておきながらきっとどうせ本当のことなんて書けないと思う.

 

将来の夢の一つにドイツに土地を買って桑名六華苑みたいな,まあ要するに桜鳴六画邸を建ててそこでクリエイティビティに富んだよしなしごとをして老後を過ごすというのがあるけれどきっと今,うん十億円手に入れてそれができるとしても,70年後に同じうん十億でそれが叶うとは思えない.

今ある一年と70年後の一年は同じ一年だろうけれど,今ある1円は70年後の1円とは全く同じく機能しない.

もうほんと結構諦めていたけれど,まあこの後どう転ぶか分からないけれど就職先の御社は半年待ってくれるって言ってくれた.

そこに泣いてすがりついて頑張るしかない.

なんでそんな当たり前のことを書かなくてはいけないのか.

「ほんと」と銘打つと当たり前しか出てこない.

半年だけ住む予定の街をちょっと散策した.

良い町だなぁなんて思った.

くっそみじめだ.

私は一刻も早く学生を辞めたい.

なのにそう行動に移していないじゃないか?

じゃあきっとそれも「ほんと」じゃないんだ.

最近まで山の木の代表格の一つにダケカンバというものがあるのを知らなかった.

カンバっていうのは要は樺の木,シラカバもその仲間でこっちはシラカンバとも言うんだとか.

カムパネルラはいったいどこへ行ってしまったのだろうか.

悲しみを抱えてジョバンニは泣けばいいのだろうか?

そういう短絡的な思考しか私にはできない.

そうではないもので世の中溢れすぎている.

こと自分の研究の話になると,いや,世の中のどの研究者もそんなこと考えもしないのだろうけれど,と,それもきっと違くて分かった上でそうしていない,それはなぜなら論理的思考の外にあるからで,「ふつうは」ちゃんと結果をかっちりした形にできるものとして論文というものにまとめるのだと思う.

私にもそんなこと分かり切っている.

それができない.

自分にとってほんとうのさいわいを型で抜くようなことなんて,まあ結局やるしかないのだけれど,だから簡単に言うと自分の,自分にとってのほんとうのさいわいを,それが実は二次元平面上にy=f(x)なんですと言うようなもので,でもそれは実はハチャメチャな話なんだよ.見る人が見たら分かります.なんて言われてじゃあやっぱり世の中普遍的なほんとうのさいわいを定式化しなくちゃいけない.そんな矛盾してるようにしか思えない.

矛盾こそ人間でしょ?

そうじゃない.

これは研究なんだ.

論理的思考さえあればなんだっていい.

じゃあ論理的思考ってなんだ.

定義に基づいてそこから導かれるあれやこれやをこねこねして罰金バッキンガムしてさようなら.

私の考えだした最強の理論は結局小学4年生が初めて自分の性器をいじって快感を得た程度のくだらんお遊びでしかない.

中学二年生になったらもうだめだ.

ましてや大人になってしまったら当時の快感なんて思い出せもしないだろう.

中学二年生で自分の理論を周りに言いふらして相手の理論を聞いて回るようになってしまったらもうそこにほんとのところはない.

ましてや大人になって結果こういうことが導き出せますなんて仰々しい言葉で飾ってしまったらもうそこにほんとのところはない.

だから自分の考えをこうして文章に書いて「ほんと」のところなんて言ってみる.

でも結局どこにもカムパネルラはいない.

じゃあ全部嘘なのか?

と,またそんな短絡的な思考しか結局私にはできない.

もういっそ全部嘘であって欲しかった.

引っ越さなくちゃいけなくていろんなものを捨てた.

いや,きっと捨ててないものの方が多いけれど.

なんで心が痛いのだ.

くっそくだらん.

くっそくだらんくてくっそみじめだった.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? を読んだ.

こんばんは,よしだです.

今回は誰もが一度は耳にしたことがあろうタイトル.映画「ブレードランナー」の原作であるアンドロイドは電気羊の夢を見るか?です.

 

 映画ブレードランナーも見ましたが,序盤は面白い!!!と思ってみてました,フォークトカンプフテストの描写や,フクロウ,ダチョウが出てきたり,原作に即している部分もあってワクワクしてみていました.

まあ最終的な評価はさておき,アンドロイドが寿命を気にして,己が寿命によって死に絶えるシーンはなかなか良かったですね,原作にはない要素でした.

 

さてとりあえず本書がどのようなあらすじかを説明してみましょう.

 

死の灰が降る大戦後の地球で主人公の刑事は賞金稼ぎ(=バウンティハンター)として働いていました.

地球に逃げこんできたアンドロイドを処分するのが彼の仕事です.

そんなときこれまでにない高性能なネクサス6型と呼ばれるアンドロイドが8体,地球に逃げ込んできました.

彼の上司(同僚?)がその処分にあたっていたのですが,彼はそのうちの2体を処分します.

しかし,3体目のアンディー(アンドロイドのこと)にレーザー銃で重傷を負わされます.

そこで主人公リック・デッカードが残りのアンディーの処分に向かうのでした...

 

なんともSFむき出しですね.

まあSFの超大作と名高いですから,それはもうSFですよ.

しかし当方,SFはミリしらです.小説は読んだことが(すべてがFになるはSFではないので)ありません.映画の方ではスターウォーズやバックトゥザフューチャーは好きですがもちろんSFの文脈というものもわかりません.

最近見た映画でワイ(ル)ドスクリーンバロックというSFのモチーフを取り入れた作品を観に行きました.

また「TVアニメ「ゲキドル」」というアニメも見ました.ワイドスクリーンバロックやゲキドルについてはここでは話しませんがもちろんこれらの(SF)とは電気羊は異なります.

 

さて,私の中にある数少ないSFの蓄積に「新世界より」があります.

当記事では当然のことながら電気羊のネタバレを含みますが,その他,新世界よりなどの作品についてもネタバレを含みます.悪しからず.

 

ここまでSF,SFと連呼してみましたがアンドロイドは電気羊の夢を見るか?はSFにとどまらない,それ以上のメッセージ性を含む小説だと私は感じました.

多くの要素が登場します.

アンドロイドと人間の違い,人間性とは何か

マーサー教という宗教と融合の儀式

ピンボケと呼ばれる人々の存在

大きくはここら辺でしょうか,もっと細かく,更には一番大事な何か,を落としているかもしれませんがお許しを.

当記事はあくまで私が読んでみての感想(怪文書)となっていて世間一般の評価や見解等はいっさい見ていません.(あとで調べてみますが)

口に合わなければ,是非高級料理店へ行ってください.そこではあなたのお望みの料理が出てくるでしょう.

 

さて脱線(それも重要な脱線を)してしまいましたがまず人間性,アンドロイド性について考えてみたいと思います.

本書はそのタイトルにもあるようにアンドロイドが登場します.

しかし彼ら彼女らはほぼ人間と同じような見た目,構造をしています.おそらく脳ユニットのみが異なるのでしょう.

処分(=レーザー銃による射殺)してもなお,「脊髄を検査にかければ分かる」というような描写があり,素人目では銃殺されても死体を見ただけでは人と区別がつかないほど人類に近いのでしょう.

そんなアンドロイドをどのように人間と区別するのか,そこに感情移入度テストというのが登場します.

君は仔牛革の財布をプレゼントされる.

君には子供がいて,その子が蝶の標本と殺虫瓶を手に持っている.

テレビを見ていると君は手首にスズメバチが這っていることに気が付く...

こうした質問にできるだけ早く答えてもらうとともに瞳孔の反応や顔面表皮の血流を見ます.

この世界では「生きた生物」は貴重で小さな虫さえ人々は所有することで自信のステータスとして誇示することができます.ちなみにタイトルの電気羊はデッカード刑事が所有しています.こうした電気性の動物はいわゆる偽物みせかけで,デッカードはいつか本物の生き物を所有することを(高額で購入することを)夢見てアンドロイドを処分する仕事についているのです.

さて,これらの質問によって被験者の感情移入度を測ることができるというのです.

そしてアンドロイドには「感情移入」がないため,こうして人間と区別できるというのです.

感情移入については他の動物たちにも備わっていないと書かれています.

そしてそれを捕食者の都合だと言っています.

つまり食うものは食われるものの気持ちを考えてはいないというのです.そんなことをいちいち考えていては捕食などできず,生存に不利になってしまうというのです.

これはもしかすると「感情移入」という比較的形のはっきりしている強い言葉では表現しすぎているようにも思います.

私はこの話を読んだ時,銀河鉄道の夜の蠍(サソリ)の火の話を思い出しました.

蠍がイタチに襲われて逃げていると,井戸に落ちてしまいます.

蠍はそれまで捕食する側で,食われるもののことなど考えたこともありませんでした.しかし,イタチに追われて初めて捕食される側の気持ちを考えた時,蠍は井戸に落ちて死ぬくらいならばイタチに食われた方がよかった,と考えるのです.

そうして蠍はいまでも夏の夜空にその心臓をこうこうと赤く灯しているのです.

というお話です.

ふむ.

これを感情移入と呼ぶにはイメージを固定しすぎてしまうような気がします.

我々「人類」が手に入れたものの一つにフィクションの創造と共有があるといいます.

お互いに考えていること(フィクション)を一つの確固たるものに固めすぎるのはあまり気が進みません.

そういうわけで,この感情移入,人間のみが持っていてアンドロイドにない業のことを私は「ほんとうのさいわい」について考えることのできる能力なのではないか?と考えました.

そしてこれこそが本書,アンドロイドは電気羊の夢を見るか?の主題なのではないか?そうであったらそれはどんなに素敵だろうと,どんなに傑作だろうと感じるのです.

これはSFの枠に収まりきりません.

そういう強いメッセージのある作品だった,というのがまず真っ先に私が感じたことでした.

私にも「傑作だった」って言わせてほしい.

 

ところで,我々の一般的に使う語としての「感情移入」について考えてみましょう.

つまりこの作品の登場人物の気持ちを想像し「ああ,それわかるわぁ」という感情になれるかどうか,という意味です.

結論から言うと,主人公の刑事,リックデッカードにも,もちろんアンドロイドにもあまり感情移入ができませんでした.唯一,J・R・イジドアにだけは「同情」があったかもしれません.(この感情表現が良い悪い正しい正しくないはさておき)

しかしそれもそうかな,という気もします.

大変な戦争のあと,死の灰が降る地球で多くは火星等地球外へ移住してしまっています.なぜ彼らはそれでも地球に残っているのか,いや,残らざるを得ないのか?こうしたところは想像で補うしかないところかもしれません.(本書内には書かれていなかったような)

そんな世界で,そんな状況で生きている人間たちの気持ちを私は(少なくとも私は)まだ想像できません.

アニメ「新世界より」では登場人物たちにあまり感情移入することはできませんでした.

それもそのはずで,彼女たちは能力を持たない人類を排除した末裔,1000年後の日本を生きているものたちなのです.

新世界よりでは彼彼女たちは私たちを醜いハダカデバネズミと混ぜ合わせたのです.そうして一生下僕のように支配しています.

これらの人々に感情移入ができないのは当たり前のように思いますが,このアニメは終盤までそのせいで入り込めずずっともやもやしていました.

だからこそスクィーラには少し感情移入ができたように思います.なぜなら彼は我々の遠い子孫にあたるわけですから.

こういう世界において感情移入ができないというのは一つ当然のことなのかもしれません.

 

では私は人間ではないのか?

という愚問がわきそうですのでやはり「感情移入」という語ではちょっと限定されすぎてしまうかなと思いました.

 

以上が私が本書を読んで思った最大の論点,人間性についてでした.

もちろんそれ以上にこの小説には意味が深そうな要素やシーンが多々登場します.

とりあえず本書の構成上重要そうな特殊者(スペシャル)について触れるべきかもしれません.

 

本書は主人公の刑事リック・デッカードの一人称と廃墟同然の建物に住むJ・R・イジドアの一人称の二つの視点で進んでいきます.

イジドアはスぺシャルと呼ばれていて,おそらくは知的な健常性が少し欠けているようです,通称ピンボケ.

しかしそんな彼も手に職をつけて働いています.

そして何より彼は彼の信じるところに忠実であり,彼の「感情移入」はその他登場人物よりも強く大きく描写されているように思いました.

簡単に言えば人間らしさが一番あったように思います.

彼と並列に紹介したいのがマーサー教という宗教です. 

坂道を登り続ける老人はその頂上に登ると墓穴世界へと落ちていきます.

しかし,また登り始め頂上を目指すのです.

道中石を投げつけられたりもします.

そうした苦行をエンパシーボックスの取手を握ると融合によって体験できるのです.

その老人こそウィルバー・マーサー.

そして不死であり,全てを受け入れる,そうピンボケも. 

どうやらこの世界で深く信仰されている宗教のようなのですが,その深い意味について考えるには私の脳みそはまだ未熟なようです.

またピンボケに最大の人間性を与えている本書の示唆するところもありそうです.ここらへんが上手く言葉になってこない.要は理解できていないという意味ですが.

 

レイチェルというアンドロイドが登場します.

主人公のデッカードと彼女は一夜を共にするシーンがあります,刑事には妻がいるのにです.(ここら辺が「感情移入」できないとする理由でもあります.)

ここも確かに大きな意味を持っているような気がします.

じゃあ言葉でどうだと説明してみろと言われるとこれも私にはできません,ぴえん.

その彼女が,デッガードが物語中盤で購入する生きた黒山羊を建物の屋上から落下させて殺してしまいます.

なぜか?

ここもわからん.

終盤ではデッガードが死にに行く(と言いながらも結局は死なない)と,家から遠く離れた荒野に向かい,そこでガラクタの山を見ます.そこで彼はまさにウィルバー・マーサーその人になったような体験をします.その後自身の影法師にマーサーを見出し,ガラクタの山から電気ヒキガエルを見つけます.

ここもわからん.

しかしですよ,建物の上から生きた山羊を突き落としたアンドロイドと,自身が永遠に山を登り続ける老人その人になったような体験をして,山から生き物を見出す主人公,つながっているようにさえ思ってしまうのです.

う~ん,なんもひねり出せん.

この主人公の葛藤のような,この刑事の人間性,否,人間でないようなものになってしまったのか?

そう,彼はアンドロイドなのか?途中少し行動を共にするバウンティハンターも自分自身が人間であるか?と疑問に思うシーンもあります.

また,デッガードの頭が一度だけ,その脳の電路がブーンと音を立てる描写があります.

もう一つ,アンドロイドは生きた動物を所有しようとはしないというのです.その例は過去に何度かあったものの長続きしなかったとか.

さて,アンドロイドは電気羊の夢を見るのか,見たのか,見ていたのか?誰が?

どうにもあと一歩,つかめそうでつかみきれない要素ばかり.SF長編は初でしたが,これが,これこそがSFなのでしょうか?

怒涛の展開にすらすらと読んでしまいましたがまた遠い未来にもう一度読みたいと思います.

ではまた,次回があることを祈って,いい夢見ろよ,歯磨けよ.

 

おしまい.

 

とここまでが読後の勢いで書いたメモでした.

ここでとりあえず岡田斗司夫に登場していただきましょう.

www.youtube.com

1:46:10あたりからの話ですが,私が思っていた気がすることを説明しています.

 

やはりリック・デッカードはアンドロイド(=ほぼ人間)を処分していくうちに人間性を失い,非人間的になっていってしまったのでしょう.

だからこそ(読者が彼に)感情移入ができないのは当たり前でしょう.

(殺人犯の心理が理解できるということほど不健全なものはありません,という瀬在丸紅子の言葉にもつながりそうです)

 

人間性,人間的であること

 

これは人類の決して見失ってはいけない永遠の呪いかもしれません.

そんなことを考えさせられる一冊でした.

 

それでは今度こそ,おしまい.

夜行 を読んでいる.

こんばんは,よしだです.

今回は本当に一言だけのメモのつもりです.

本来ならnoteの方に書くべきかもしれませんが,読書に関する話題でしたので,できるだけ読みやすい文体でブログの方に書くことにしました.

 

私は今,森見登美彦の夜行を読んでいる途中で,あともう少しというところで読み終えます.

じゃあ,読み終えてから を読んだ. シリーズを更新すればよかろうものとお思いになられるでしょうか.

とにかく一言だけですので急いでメモをば.

 

この物語は不思議な旅の持ち合わせによって成り立っています.

その最終夜,鞍馬の項にて「それらはとくに何ということもない平凡な旅の思い出だった。」とあります.

私が読んだ限りですとどこもかしこも平凡なんかではなかったのですが,これは最後まで読むと解決するのでしょうか?

 

うむ,とにかくよくわからないけれどぞわっとさせる物語がここまで続いています.

私は最近,この「よくわからない」という感覚にはまっています.これは私の中でブームになっているという意味です.

よく分からないのものをよく分からないものとしてそのまま楽しむ,という感覚がなんとも心地よいです.

答えが一意に定まるような物語だとしても,答えを明示されていない限りこのような楽しみ方ができますし,いろいろな読み方のできる物語であればそれはもう楽しいことこの上ないです.

 

皆さんには是非,私の見えていない世界をお聞かせ願いたいところです.

もし私にその気力があれば夜行は感想をまとめるかもしれませんが,この「を読んでいる.」というタイトルは便利なもので,とくに感想を書く必要がないという気楽さがあります.

文章を作るのってかなり大変ですからね,これくらい気楽に文字をぺたぺたしていた方が私には合っているのかもしれません.

 

では,感想を書く機会がありましたらその時に,お会いしましょう.

 

 

おしまい

スプートニクの恋人 を読んでいる.

こんばんは,よしだです.

を読んだ.とカテゴライズして読んだ本の感想を一言述べる記事を書いていましたが,止まってしまっていますね.

まあ,記事を書くために小説を読むというのは私的にはやりたくないことなので,今後も気ままに読書していきたいと思います.

 

さて私は今スプートニクの恋人を読んでいます.

初めての村上春樹長編です.

私はこれまで村上春樹を読まず嫌いしていましたが,先輩の勧めでカンガルー日和スプートニクの恋人を買いました.

カンガルー日和はとりあえず「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出合うことについて」だけ読みました.

これは秒速5センチメートルかなというのがとりあえずの所感です.

きっと起こった出来事としてはすれ違っただけなのでしょうが,きっとその瞬間に様々な逡巡があったのでしょう.

 

わかります.

 

これを読んでいるときに同時に河野裕の階段島シリーズ「黒は壊れた凶器の叫び」を読んでいました.

このシリーズはなあなあで第4弾まで読んでいましたが,正直に言うとあまり好きであはありません.おそらくその先も読みません.

成長とは諦めることや捨てることなのだろうか,という問いにもし前向きな回答が用意されていたとしても,私はそれまでの過程を気にいることはできません.

 

では成長とは何でしょうか.

 

このテーマを前向きに描いたアニメーション映画を最近見たのですが,これは私には重くのしかかってきます.この話は割愛.

 

遠い昔に書いていたような気がする小説でこのような文章を書きました.

 

けれど一生懸命に誰かを追いかけて,ただひたすらに同じルートを周回し続けるある意味健気なあの彗星を私はどんな思いで眺めただろう.否,彼女はもう二度と地球には接近しないルートを走っていたかもしれない.

気が付くと周囲は夕暮れ時で,頭上には満点の星空が広がっていた.

そして西の低いところに大きな尾っぽを引いた彗星が見えた.

私はただ,あの彗星の後ろ姿を見ることしかできない.

明日も,明後日も同じ場所に見えるだろう.

けれど彼女は一方で,ちょっとずつ向きを変えて,場所を変えて,そしていつかは見えなくなってしまう.

そのはずなのに,私たちはその瞬間を気にも留めず,気がついたらいなくなる彼女らをいなくなってから認識するのだ.

 

彼女とは彗星のことであり,魔女のことであり,私自身のことです.

いつも同じルートを周回しては同じ景色を見て,私自身の成長とは何ぞや,と問いかけています.

けれど,そう考えていたはずの自分は気が付いたらどこかに行ってしまって,しかしやはりそのことは自明の理であるにもかかわらず,いなくなってから自覚するのです.

もちろん自覚されないこともあるでしょう.

 

本題ですが,村上春樹について.

私は読み始めてからまずその文章のの深さに舌が追い付きませんでした.

おそらく河野裕があまりにもうっすい塩味だったのでその落差もあるでしょう.

味が濃いのとも旨味がひたすらに強いのとも違うように思います.

なかなか表現が難しいのですが,さらっと読み進めることが難しくゆっくり味わいながら読んでいます.

おかげで全然読み進みません.

 

そんな中,スプートニクの恋人の中に好きな一節を見つけました.

ぼくは昔の日々のことをふと思い出した。ぼくの成長期(と呼ばれるべきもの)はいったいどこでいつ終わりを告げたのだろう? そもそもそれは終わったのだろうか? ついこのあいだまで、ぼくは間違いなく成熟への不完全な途上にいた。ヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースのいくつかの曲がヒットしていた。数年前のことだ。そしてぼくは今こうして、一つの閉じられたサーキットの中にいる。ぼくは同じところをぐるぐるとまわり続けている。どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。そうしないわけにはいかないのだ。そうでもしないことには、ぼくはうまく生きていくことができないのだ。

表現の近しいところがあるからという理由ではありません.けれど,これは私の思い描く彗星の比喩と言わんとしていることは似ています.

しかしその結論や現在位置が異なります.

どこにもたどり着けないことを知りながら、それをやめることができない。

私は彗星の行く先を知りません.

知りたくありません.

しかしそれは,もしかしたら知っているのに知らない振りをしているだけかもしれません.

もしそうであるならば悲劇でしょうか.

けれどどうしても,知らない振りをしてでもその彗星の行く先に期待したいのです.

 

自分の考えたことなんていうのは一つも面白くありません.

 

最後に最近好きになった曲の一節を引用して終わりにしたいと思います.

まどろみの淵で私は優しい夢を見る 幻と知りながら

絶望のほとり 懐かしい人の名を叫ぶ

嵐の向こう側にいると あなただけに届けばいい

 

 

 

二年前の春にした旅について 5

 ほいほいと簡単におじさんの家に上がり込んだ.

 もちろんすぐに帰るつもりだった.

 二日分の宿代を払ってしまっているし,万一の命の危機に関わる可能性まで考えた.

 コーヒーを手渡されて,居間に腰付けると私たちはよく分からないまま会話を始めた.

 おじさんは私の目が,人生に疲れた色をしていたとそう言った.

 悩みを教えないさい.

 そう言われて私は自分でも信じられないほど正直に研究室所属や将来の不安について話すことになった.

 今となってはもう話の順序や出来事の順序については覚えていない.

 だから覚えていることを思い出した順に書き連ねることになると思う.

 おじさんはただ若い友達が欲しいと言った.

 しかし私がそれになれるとは思わなかった.

 おじさんは長く船乗りをしていて,しかしもう引退の時だと語った.

 大分には一人で住んでいて娘息子はもう立派に社会に出ているのだと語った.

 おじさんはカメラが好きだと言っていていつくか古めかしいカメラを見せてくれた.

 その一つを手に取って私は何枚かシャッターを切った.今となってはそのメーカーすら覚えていない.

 その日は火祭りと言って山に火を放つ祭りがあった.

 夜になって少し外を出たときにおじさんとその山が燃え盛るのを見た.

 こうして外に出ておじさんは近くのお店でお酒をいっぱい買ってくれた.

 そのうちの一つが安い焼酎で,九州に来たからにはと言われて飲んだが焼酎が嫌いな私にとっては苦行であった.

 おじさんは私に名前を尋ねた.

 私は包み隠さずその名前と漢字を伝授した.

 驚いたことにおじさんは私と同じ名前を使った親族がいるということを明かした.

 そしてそれは「力の強い」漢字であると言った.

 私の下の名前はつくりが「曜」と同じであるのだが,実は母が戸籍に登録するときに二つ並んだヨの部分を「羽」で書いて出したらしく,母曰く「ひかりかがやき羽をもってとびはねるようにげんきな」という願いを込めたのだと伝え聞いていたので,私はその通りに話した.

 するとおじさんは古来このつくりは「羽」で書くのが正しいと言った.

 以来私は自分の名前を,これまでヨ二つで書いていたのを辞めて「羽」で書くようになった.

 またおじさんは私が腕時計をしていないことを指摘した.

 それは身なりの一つなのだと教えてくれた(そして私はこの旅を終えるとまず腕時計を買ったのだ).

 おじさんは腕時計をくれるというので私はおじさんが数多く持っている腕時計の中から適当に一つ選んでそれを頂戴した.

 更におじさんは私に何かプレゼントしたいと言い始めた.

 珍しいものがあると言い,私は大阪万博(1970)のソビエトパビリオンのメダルを渡された.

 これがどんな歴史資料的価値があるのか分からないがとりあえずもらうことにした.

 また謎の手ぬぐいも渡された.

 そして,必ず東京に帰ったら一度手紙をよこすようにと,私たちはお互いに住所を教え合った.

 もちろん私も嘘偽りのない住所を教えた.

 それ以来私はこのおじさんに手紙を出したことはない.

 あちらから届いたこともない.

 ただ,今でもおじさんからもらった腕時計とメダルと手ぬぐいと,住所と名前の書かれたメモ代わりの茶色い封筒が私のところに残っている.

 そして悪い事件に巻き込まれたというようなこともない.

 もうお分かりだろうが私はこの日湯布院の安宿には戻らなかった.

 おじさんの家で寝ている間,おじさんはマッサージをするといって脚をもんでくれた.

 時々手が股間近くに来ることがあってすこぶる不快で嫌がったが,おじさんはリラックスしろとそれだけを言った.

 そこにいたる前の会話で私がどれくらい自分自身について語ったか正直ろくに覚えていない.

 後になって冷静に考えると生きてあの家から出られて本当に良かったという感想しかない.

 しかし,今私が腕時計をしているのも,下の名前を「羽」で書くのも,あのおじさんがいたからこそなのは間違いない.

 未だ嘗てこのことについて私は誰かに語ったことはない.

 そして特にこの日が私の人生の分岐であったというわけでもない.

 しかし,こうして書き留めておかないと墓場に持っていくことすらできないかもしれないと思ったのだ.

 この年,もし私が何かしら精神的成長を遂げたとするならばこの日よりもだいぶ後に起こった(というより参加した)出来事によるものだと思う.

 いずれにせよこうして私の旅は閉幕へと向かうのである.

 帰りの飛行機は四月の三日だという記録がある.

 ジェットスターGK604便 大分発―東京(成田)着 十一時三十分―十三時十分.

 この飛行機が六時間遅延して,空港で「イシュタムコード」という本を買って読んだ記憶がある.

 その四月の三日に,私の研究室配属が決まり,今幸福にも宇宙工学を専攻することができている.

二年前の春にした旅について 4

 翌日は朝早くに宿を出て由布岳を目指した.

 バスで登山口まで向かい私は勢いよく登り始めた.

 登山は好きだ.

 この身をもって一歩一歩目標地点に,物理的に近づいていけるというこの感覚が心地よい.

 この日は雲量六程度の晴れだったが山頂はどうだか分からない.

 少々の不安はあった.

 しかし登山客,それも老人もちらほらいたので私はとにかくこの,山頭火も良しと言った由布岳を一歩一歩踏みしめた.

 由布岳はふたこぶの山であり東峰と西峯とがあり,東一五八〇に対し西一五八三.五と少し高い.

 その左右の分岐路についたとき,左手側は垂直の鎖場となっていて私は慄いた.

 またこのとき雪も降り始めていて西峯を登るのは諦めようと考えていた.

 この分岐路では人がたむろしていて特に老人たちが霧氷だ霧氷だと植物の白化粧を愛でては嬉々としていた.

 この季節の霧氷は珍しいと教えてもらうと私もたちまちその美しい自然現象を目でよく観察した後,写真を撮った.

 右手に進んで東峰に登頂すると雪こそは止んだもののさながら雲の中だった.

 しかし,なんとなくすぐにこの雲も退くだろうという楽観が私にはあった.

 東峰の頂上には同じ登山客のおじさんがおった.

 私が西峯の方を見ていると,あちらには行きましたか?と聞くので,行けるのですか?と返した.

 するとそのおじさんは今から行くので一緒に行きましょうと私を案内してくれた.

 今一度分岐路に戻ってくると見事なまでに晴天となった.

 私はそのおじさんが身軽にも垂直の鎖場を乗り越えていくのを見様見真似でついていった.

 これが私にとって初めての鎖場であった.

 西峯に着くとおじさんは昼食を広げ始めた.

 私はこのとき昼食はいつどのようにして取ったのだろうか?全く記憶にないが,私はおじさんにお礼を言うとそそくさと下山し始めた.

 この日もまた湯布院の湯に浸かることも考えたが,私は少し違うところで温泉に入ろうと考えた.

 大分と言えば別府もまた有名な温泉地であった.

 私はその中でも無料で入湯できるという市民施設へとわざわざ向かい,そこで登山の疲れを癒した.

 この時の私が他人からどう見えていたのかは分からない.

 将来のことに対する漠然とした不安や自身の劣等感は登山の疲れとどっちが大きかったか分からない.

 温泉の外のベンチに腰かけていると自転車に乗ったおじさんが,どうしたの?と声をかけてくるものだから,疲れてしまって,とか適当に答えたのだと思う.

 逃避行と言えど贅沢にお金を使ってただただお旅行しているのと何ら変わりはない.

 こんなことしていていいのだろうかと私はさらに自己嫌悪に陥っていたと思う.

 大学生?とかどこから来たの?とかいろいろ聞かれて適当に受け答えしていたら以外にもこのおじさんは私の通っている大学を知っていて,私は少し驚いた.

 コーヒーでも奢るよ,なんて言われたので私は少し嬉しそうして,いいんですか?なんて言いながらおじさんについていった.

 自販機の前で好きなの選んでと言われたので私は迷わず無糖を指定した.

 おじさんはボタンを押すと缶コーヒーを拾い上げ,じゃあうち来なよ,と言って自転車をこぎ始めた.

 私は大いに焦った.

 太古の昔より知らない人についていってはいけないと教わってきた.

 それはなんとなく立派な大人にならなければいけないという,濁った強迫観念と,けなしたように言うことは確かにできるかもしれない.

 私は勝手に自分が不自由だと思い込んで,そういった実体のない何かに縛られていると思い込んでいたのだと思う.

 しかしこの時だけは自由への背徳感が私をおじさんの後へと押しやった.

二年前の春にした旅について 3

 翌四月一日

 私は真っ赤な列車に乗って湯布院へと向かった.

 いよいよ旅の,そしてこの文章の主要部へと突入する.

 目的地に近づくにつれて立派なふたこぶの山が見えてきた.

 由布岳という.

 かねてより山が好きだった私はその姿にまず見蕩れ入った.

 そしてついに到着する.

 流石は人気の観光地である.

 人が多く訪れていた.

 この時期はちょうど菜の花の黄色が鮮やかだった.

 桜も七分咲きといったところでその調和がとても美しいと思った.

 私はなによりもまず温泉に浸からねばならぬと思った.

 この湯布院という地に来たのはたびたび両親の口から「湯布院は良かった」という話を聞いていたからであり,正直それ以上の情報は何も得ていなかった.

 ただこの地に来たのだということ.

 そしてその湯に浸かったのだということ.

 その事実さえ作ってしまえば私も「湯布院は良かった」と宣える一員になれると,早くそうなりたいと願っていたのだろう.

 真昼間から湯に浸かるというのは,これほど気持ちのいいことはない.

 私が訪れた温泉の,浴場入り口の上に大きな木簡が構えられていて,そこには種田山頭火もこの地を訪れたと,そしてあの山を見て登らずにはいられなかったと,そんなことが書かれていたように記憶している(記憶が曖昧だが確かに由布岳を良しとは言っていたはずだ).

 私は(私と母は),山頭火が好きだった.

 そののびのびとした自由律の俳句に心惹かれるところがあった.

 そうだ...

 私もあの山に登らないわけにはいかない.

 そこで私は翌日,由布岳に登ることを決めた.

 また2019年,つまり平成三十一年四月一日

 この日,日本国は翌五月からの新年号を発表することとなっていた.

 湯から上がると私は所持していた携帯端末で生放送を見ていた.

 令和

 官房長官が告げる.

 令和です.

 なるほどピンと来なかった.

 それは私にとっては,もちろんどの人類にとっても馴染みのある響きでは無かったから仕方なかろう.

 令和令和.

 と私は口の中で転がしながら温泉を後にした.

 川岸には一面の菜の花とその段丘の上には満開まであと数日といったところの桜の並木,そしてその背景に聳える由布岳

 その自然の描き出した情景は今でも目に焼き付いている.

 私は持参した小型のデジタルカメラで一生懸命に写真を撮った.

 写真を撮るという行為に夢中になって生の目で見るということをおろそかにしてはいけないと,思うことがよくある.

 私は確かにこの目であの情景を見,そして取り出しやすいところに,意識して目立つ印を付けて収納した.

 きっと忘れることはない.

 その鮮烈な絵と裏腹にとても寒かったその気温も一緒に覚えている.

 散策しているとビールが飲める施設につき当たった.

 私は迷うことなくビールとつまみのチーズを注文することにした.

 由布地ビールというものだったのだろう.

 そこで私は青空を仰ぎながらビールを飲んだ.

 そしてもう一度口の中で令和令和と転がしてみる.

 なるほど,こうしてみると恰好良いではないか.

 それは平成という言葉の恰好悪さを引き合いにして語ることになるかもしれない.

 つまり,平成という語はピンクやライトブルーのパステルカラーを白で伸ばしてムラなく一筆に塗りつぶしたようなイメージを想起させる.

 一方でこの令和という語は,その令の字が「冷」の音と同じ「レイ」であるように,ある程度の冷たさをもった深い海のように澄んだ,そして切れのあるイメージを想起させる.

 それは猛々しい日本海ではない(太平洋は論外である).

 そして私はまだそのイメージに合う海を見たことがない.

 後日私はオホーツク海を見るのだが,季節の問題もあるかもしれないがそれもまた違っていた.

 初春の令月 気淑く風和らぐ

 ここから取って令和だという.

 素敵だと思った.

 私はすぐさまこの令和という語が好きになった.

 私は湯布院に二泊同じ宿に宿泊する予定だった.

 湯布院は人気の観光地とだけあって宿も高い.

 私は中心街から少し外れた安宿に素泊まりで二泊予約していた.

 宿に着くと経営している夫妻は日本人ではないことが分かった.

 電話越しでは少々言葉が躓きがちな人だなと思ってはいたものの地方特有の訛りだと思っていたがそうではなかったらしい.

 二泊分の宿代を前払いし,私は部屋で休息した.

 一泊目は地方出張だという自衛隊員と相部屋だった.

 かなり若く見えた.私とそう離れていなかったと思う.

 しかし彼こそは日本人であるもののその訛りが非常に強く,私は全然彼の言っているところが聞き取れなかった.彼が自衛隊員であるかどうかすら怪しい.

 そもそも自衛隊の地方出張で一人でこんな安宿に泊まるなんてことがあるのだろうか?そんな疑問を持ったところでぶつけることもできず,ここに湯布院の一泊目が幕を閉じた.