@がんばらないで生きていく

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日の記 1

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気が付いたらもう私は大学二年生だった.

小学生のころ,中学生になれば何か世界が変わるのではないか,と期待していた自分がいたことをなんとなく思いだす.けれど実際はそんなことはなく,世界はただただ理不尽にあふれかえっているということを思い知らされただけだった.ある意味ではその時世界が変わったと言っても間違いではないかもしれない.

大学生になれば何か世界が変わるのではないか,とこれっぽっちも期待してはいなかった私は,ただただ日々を消費して,そして何を得るでもなく一年間を過ごした.

一方でそのことに私はとてつもない絶望を感じていた.これはとんでもない我が儘だと思うし,かなり矛盾した感情だとも思う.朝起きて,目が覚めたのにまだ眠い,と思うのと似た程度の我が儘と矛盾だ.

今日も何となくで目が覚めて,目覚まし時計がやかましく鳴りだすと同時に手を伸ばしてアラームを切る.壁に掛けられたカレンダーを見ても今日が何曜日で何日かを思い出せないので時計のデジタル表示をぼやけた目で眺めて,何となく今日の日付を理解する.

朝は弱い.

朝に,なのか朝は,なのかすら分からないが.強い,弱いというパラメータは何によって決まっているのだろうか.私はおそらくかなり弱い部類だと思う.でも,きっと誰とも比較できるものではないのだろうなと思いながら体を起こして硬直する.

この時間の太陽は,朝陽,と呼べるのだろうか.東向きの私の部屋に熱い光が流れ込む.

今日は時計の表示を信じるならば二限からの登校なので,この時間に起きても遅刻はしないだろう.きっと昨日寝る前の私はこのことを見越してアラームをかけたのだろう.それが本当に同じ自分であるとはにわかには信じがたい.

あとはいつもどおり少しだけエネルギを消費して身支度したり朝食をとったりして家を出ればそれでいい.それだけで誰かに合格点をもらいたいものだ.

朝という時間は不思議だ.自分が誰なのかをあやふやなままに決められた行動を淡々と取り続ける.私はただのクローンだ.ほかでもない,私自身の.きっと,こうして毎日をただただ昨日のCtrl+Cみたいに思って生きてきたから,私は気が付いたら大学二年生になっていたのだと思う.将来のことを考えると不安だ.私は何になるのだろうか.目標も,やりたいことも,なにもない.

私はよく次の瞬間には大学の最寄り駅を降りて改札を出ようとしている場面になっている,という錯覚を覚える.きっと朝目が覚めてから電車に乗って降りるまでがあまりにパターン化されてほぼ無意識なのだと思う.

改札を出るとすぐ目の前が大学だ.これがこの大学のいいところの一つである.

大学前の十字路で信号待ちをしていると不意に,立っているのがやっとだといわんばかりの老体が私に小さな紙きれを差し出しながら言った.

「聖書を読んだことはありますか?」

私はよく,この手の勧誘に声をかけられる.

「実は少し,読んだことがあります」と私は言う.

「そうですか,これ私が好きな一節でして」

紙切れには何やら聖書の一説が書かれているようだった.

と,信号は青になる.

「すみません,後日またゆっくり」私は歩き出す.

老体は,ああ,だの,うう,だのと何かを言った.

本当はもっと向き合ってやればいいのだろうか,けれど聖書など正直言ってこれっぽっちも興味がない.しかし,後日またゆっくり,だなんて思ってもないことを.

私は勧誘を振り切って歩き出す.得たいも知れない罪悪感が私の背中に張り付き,太陽の光が背中にあたって一層気分は落ち込んだ

陽が熱い.気温はそれほど高くないが日光はガンガンと私の体温を上げていく.

春.

この大学ではこの時期になると桜が見事に花を咲かせる.一般人がよく花見に来ていて学生たちはそんなキャンパスのことを「国立公園」と揶揄していた.これはそうでなくても年中一般人がうろついているからであろう.今年は春先に寒い日が続き,桜の開花が例年通りだったらしい.もはや原因と結果が正しく対応しているのかすらわからない.

本館の前はウッドデッキとなっていてその両脇から桜の木が生えている.見事に満開であった.私はただただ純粋にその桜の咲きっぷりに感動して綺麗だなぁなんて思っていた.

桜の木の周りは木製のベンチで囲まれていて,普段はそれがベンチだとあまり意識して目をやることもないのに今日はなぜだかそれに目が留まった.なぜならこの空間にはあまりにもふさわしくない何かがそこにあった,いや居たからだ.

私はそれの存在にひとたび気が付くと,もう目を離せなかった.

そこには外見が十四,五の少女のそれである何かがそこに座っていた.私はそれの前で立ち止まり,素早くニ,三度瞬きした.

「こんにちは」とそれは言った.

私はそれを凝視するだけで何も言葉を発せないでいた.

「それそれって,物みたいに言わないでくださる?」

それは言った.私はそれが何を意味しているのかが分からなかった.

けれどそれは,

まるで,

まるで私の心の声が読めているのかのようで,

「気味が悪い,なんて思ってます?」

私はそれに気が付かれないように鼻で息を吸った.

「気味が悪いね,とても」私は絞り出すようにそう言った.

ここを歩いている他の連中はこれの存在には見向きもせずただただ通り過ぎていく.その事実が一層この状況の不気味さに拍車をかける.

「何をしているの?」私は聞いてみた.

ふふふ,とそれは笑った.

「まずは私のことを物扱いするのをやめるところからお願いできるかしら?」

「わかった」

私は何が分かったのだろうか?

「君はこんなところで何をしているんだい?学校は?」

「ありがとう」彼女は少し笑って見せたがそれが一層彼女の存在を不思議めいたものにしていた.

「私はね,桜の木の下でこの大学に登校している人たちを見ているわ」

彼女はさも当然というように私が見ているままのことを説明した.私は少し彼女を気にしながら振り返って登校している人々を見やる.

「でも,誰も君に気が付いていないようだけれど」

「そうなのよ,不思議ね」

不思議だった.否,気味が悪い.

一体彼女は何者だ?

「どうしてだと思う?」彼女は聞いた.

お前は何者だ?この問いが私の脳に張り付いて剥がれない.

どうしてだと思う?

そんなの,いや,けれど,

それは,まるで答えを知っているかのような聞き方だった.

「では,教えて差し上げましょう」

と,

彼女は言うと,立ち上がって,

ベンチの上に立って、

着ている服が,長いスカートの,裾がひらひら揺れて,

そして,言うのであった.

「私が魔女だからでしょうね」

体の後ろで手を組んで,少し前のめりになりながら彼女は言う.

僕は何を見ていただろう.

どれくらいの間そうしていただろう.

そして,ここはどこで今はいつなのだろうか.

私は時間が止まったのではないかと,否,そうではなくとも時間が不具合を起こしたのではないかと,そんな気がした.