日の記 11
11
私が中学生の頃,一度大きな彗星が日本からでもよく見える時期があった.もちろんその彗星の出現はずっと前から分かっていたことで,私はしきりに友人たちにそのことを話していた.
けれど驚いたことに私の友人たちは特に興味を持つわけでもなく私の話には耳を傾けなかった.
私はそれまで宇宙とか自然現象というものは全人類が好んだり興味を持ったりする対象だと思い込んでいた.けれどそうではないのだな,ということを私は初めて知ったのだ.
私は当時その彗星の出現を今か今かと待ち望んでいたけれどそのことについて同じ話題で話せる相手がいないことに一方で深く悲しんで,自分の感情が分からなかった.
自分の信じて疑わなかったものが音を立てて壊れていく気がした.
きっと誰もがいつかはする経験なのだろうけれど,感受性が敏感になり始めた思春期の頃の私には,そのことが少しトラウマ的体験として心を抉った.
好きなものを好きなままでいてはいけないような気がした.
どうして人間の感情はこうも不自由なのだろう.
「人間はとても自由じゃない」と魔女は言う.
「とても不自由だと思うんだけど」
このときの魔女は少し不機嫌に見えた.
けれどもちろんその理由は全く分からない.
「自由っていうのはね,ライオンから逃げる兎のようなものなの」
私は珍しく,魔女の言っているところが分かった.
つまり,兎を得ようと駆け回るライオンは不自由なのだ.
「何かを得ようともしないあなた方が,不自由だなんて,そんなことはそもそも認識違いよ」
「君は不自由かい?」と私は尋ねる.
「私は,今は自由よ.今すぐにでも何かを得ることを諦めることができる」
「そうするとライオンもある意味では自由なんじゃないかな」
と私は言ってから気が付いた.気が付いたことが二つあった.
自由や不自由という概念は非常に曖昧で,だから自由な身にとって他人の自由不自由は関係ないのだ.
けれども一方でこれは対になっている概念でもない.どちらかというと一体になっている概念だ.
「魔女はね,」
自由には生きられないのよ,と.
なんとなくそんな感じのことを言っていた気がする.
今でも魔女の言葉は曖昧で取り出して思い出せるものは少ない.しかし,それは不意に,そして特段の根拠もなく私はその言葉を信頼してしまうのだ.
魔女にとっての自由が何たるかが分かるわけではない.けれど,私は人間はなんて自由で身勝手で適当な生き物なのだろうと思ったのだ.
あの時もっと深く掘り下げて聞いていたら,もしかしたら魔女が生きる意味やその存在,目的や世の真理について私は一端を垣間見ることができたのかもしれない.
あの時の彗星が次いつ来るのかを私は覚えていない.
けれど一生懸命に誰かを追いかけて,ただひたすらに同じルートを周回し続けるある意味健気なあの彗星を私はどんな思いで眺めただろう.
気が付くと周囲は夕暮れ時で,私の頭上には満点の星空が広がっていた.
そして西の低いところに大きな尾っぽを引いた彗星が見えた.
私はただ,あの彗星の後姿を見ることしかできない.
明日も,明後日も同じ場所に見えるだろう.
けれど彼女は一方で,ちょっとずつ向きを変えて,場所を変えて,そしていつかは見えなくなってしまうだろう.
そのはずなのに,私たちはその瞬間を気にも留めず,気がついたらいなくなる彼女らをいなくなってから認識するのだ.